安養寺の歴史
尼崎藩主 青山侯とのつながり
寛永12年(1635年)尼崎城城主、青山幸成(よしなり)侯の時に帰依を受け、青山家の菩提寺となる。
また、尼崎藩青山家第2代藩主青山幸利(よしとし)侯と、第3代藩主青山幸督(よしまさ)侯の墓地が当寺にある。
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天暦年間
(950年)尼崎・大物に、恵心僧都源信上人の妹、安養尼の開基と伝わる。
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寛永12年
(1635年)青山家の菩提寺となる。
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寛永20年
(1643年)尼崎藩第2代藩主青山大膳亮幸利侯は、領地を巡回中に、坂本村(現在の大倉山の麓)に立ち寄り、楠木正成公の墓(梅塚と呼ばれていた塚)があるのを見つけ、五輪の塔を建て、梅と松の二樹を植えられた。
後に、水戸光圀公の知るところとなる50年前のことである。 -
貞享元年
(1684年)幸利侯没後、遺書により安養寺を坂本村(現大倉山)に移転し、山上に墓を建て、菩提を弔うこととなった。
それ以降、この山(現大倉山)を安養寺山と言うようになった。
幸利侯は在世中、領民をいたわり、飢饉の時などは免税し、善政を布かれた名君の誉れ高い人であった。それを物語るのが、長田区東尻池で地元の人が"報謝碑"をたて、「大膳祭」を年中行事として行っていたことでもわかる。 -
明治4年頃
お檀家を持つようになった。
安養寺山も官有地となり、明治の末には公園に造成されたが、後に大倉男爵が別荘を建てたので、大倉山と呼ばれるようになった。 -
明治25年
(1892年)尼崎如来院の末寺を脱して、知恩院直末のお寺となる。
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大正4年
(1915年)青山家の墓を境内の墓地に改葬する時、副葬品が多数出土した。
現在の墓地の側には、平沼騏一郎書と伝わる「青山幸利候景仰碑」がある。 -
昭和20年
(1945年)当時の防空法により、「建物強制疎開」を命ぜられ、安養寺は解体された。
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昭和21年
(1946年)山門と鐘楼を買い戻したが、本堂は不明のままで以降仮の本堂のままであった。
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平成7年
(1995年)1月17日、阪神・淡路大震災にあい、全てが倒壊した。
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平成14年
(2005年)第三十世覺譽涼裕が入山し再建立の準備を始める。
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平成17年
(2005年)再建立委員会
住職
総代3名
委員2名
創友設計
を中心として立ち上げる。 -
平成23年
(2011年)工事着工
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平成27年
(2015年)3月8日、落慶式を迎え、現在の安養寺が完成した。
奇しくも、終戦から70年、大震災から20年の節目の年であった。